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過ち [ショートショート]

たったいっかい曲がり角を間違えただけなのに
戻れなくなった

そこからいくつもの曲がり角を曲がってしまったから
さらに戻れなくなった

何を基準にして歩いていたのかわからない
手がかりを探して戻ってみたけれど
たくさん道がありすぎるのに
もう道しるべはない

色だったか?
建物の形?
あるいは東西南北のどこから何百メートルという数字?
何が先にあった?
その次には何が来た?

しょうがないよ
戻る術はないのだし
それよりはもう、違う方向に歩き出した方がいい

たくさんのまちがいを抱えて
痛くなった心をさすって
上塗りされた汚い道の中に足の置き場を探り
あまり足が沈み込まない程度に
あまり靴が汚れすぎない程度に
あるいは汚れても落とせる程度に
靴を汚しながら
今晩眠る瞬間だけを夢見て
とにかく息するんだね

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6月 [ショートショート]

もう6月だよ
そのまえはもう5月だったのに
つぎには7月が来る
8月に向かって

暑さから
寒さへ
寒さから暑さへ
ちょうどいい温度はどこにあったのかな?

凍りすぎなかったし
溶けすぎなかった

ただ単に今を認識しながら
手探りでつかめる物に身体をあずけながら

もう6月だよ
そのまえはもう5月だったのに
つぎには7月が来る
8月に向かって

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くうはく [ショートショート]

ひまをもてあまして
文字を並べています
ひまが広がると
心の荒野が広がります

その広がりは
「つまらない」という場所になってしまいます

それを広げないために文字を埋めています
文字、文字、文字、文字
ひとつひとつの形があり
それを並べると意味がうまれます

どの形が好きか?
好きな形だけ選んでいたら意味にならないけど
その中に意味を見つける人もいるのかもしれません

まあいいか、
とりあえず知っていることだけ
書けるところだけ
描けるところだけ
埋めておきます

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捨てる写真 目次 [目次]

古いアルバムを整理して「捨てる写真」としてまとめましたので、
目次を作りました。

このまとまりは、ざっと、
捨てる写真①父方の家族
     ②母方の家族
     ③両親
     ④私
     追伸

となっていますが、①についてはすでに目次を作っていますので
そちらをご覧ください→①の目次


捨てる写真②母方の家族
(1)兄弟姉妹
(2)K子おばさん

捨てる写真③両親
(1)結婚前??
(2)結婚
(3)結婚後

捨てる写真④私
(1)誕生
(2)弟が生まれるまで
(3)弟が生まれて
(4)七五三まで

(追伸)いろいろ思い出してきたこと 

以上です。

リンク切れなど、お気づきのことがありましたら
教えていただけるとありがたいです。

よろしくお願いします。




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捨てる写真(追伸)いろいろ思い出してきたこと [古い記憶の整理]

s_b2-al.png

古い写真を整理したことで、いろいろ思い出すことなどがあって
わりにセンチメンタルな気分になりました。
それをまとめてみました。

「銭湯」
物心ついた頃、
家にはテレビがなく、洗濯機に絞り期が付いていたし
電話は表通りのお菓子屋さんから「呼び出し」てもらっていたし
冷蔵庫の中を冷やすために氷屋さんから氷を買っていたし
どじょうとかうなぎを天秤棒で肩から下げて売り歩くおじさんが
横丁に腰を据えてどじょうを切り裂いていたし
新宿までは都電で行ったし、
トロリーバスで品川に行ったし
小学校の低学年で家が新築された時まで家に風呂はありませんでした。

祖父が引っ越しして新しく建てた4階ビルに住んだ時、
エレベーターを付けたのに、
「お風呂を作る」という発想はなかったのです。
1960年頃でしょうか??
祖父母の家から歩いて行ける、新宿三丁目界隈にはまだ3軒の銭湯があって
いつも行くのは厚生年金会館近くの銭湯だったけれど
そこがお休みだと、末広亭の近くにも銭湯があり、
黒いお湯だったので「醤油のお風呂」と呼んでいました。
今考えると、距離的にはこちらのお風呂の方が近かったのですが
もしかしたら料金が違っていたのか?
近所の人が行く生活の一部としての銭湯というよりは、
近くに遊びに来た人のための銭湯だったのかもしれません。

祖父はお風呂に行くと、ふんどし一丁で、
その上に半纏を羽織って帰って来ていました。

今は厚生年金会館もなくなってしまったし、
 (ここで「コント55号の世界は笑う」という番組の公開録画をやっていました。
  その後始まったドリフターズの「8時だよ全員集合」の裏番組でした。
  そのコント55わくは
  その後「俺たちひょうきん族」になったわくです。たぶん
  

祖父の死後、祖父の家ではユニットバスを作ったのですが
祖母はこのお風呂で亡くなりました。
その後も、ぺんぺんは銭湯が好きで、どこか四谷の方まで行っていました。

祖母はどんなことがあっても毎日お風呂に行く、という人で
5人の子たちが洗ってもらう順番を待って、立って居眠りしていた
という話を聞いたことがあります。
子どもが風邪をひいたりして熱があっても連れて行っていたということです。

Fおばさんの家でもずっとお風呂がなくて、
カナダの従姉妹が里帰りすると、
家族そろって銭湯に出かけていることがよくありました。
その従姉妹は一人目の息子は日本の、その従姉妹が産まれた新大久保近くの日赤で産み、
しばらくは彼女の実家、Fおばさんの家で暮らしていました。

カナダ人のだんなさんと、赤ちゃん連れて銭湯通い。
まず従姉妹が赤ちゃんを入れて、男湯と女湯をつなぐ通用口のようなところで赤ちゃんをだんなにパス。
外で待ち合わせて帰って来ていた、ということです。

その後、Fおばさんの家が建て替えられ、お風呂が付くまでは
家族そろって、一緒に四谷の方まで銭湯に行っていました。

今では信じられないような、夢の中のできごとなのか?
と思えるような世界です。

「情報量」
なぜだかはわからないのですが
なぜか?
ずっと情報とかデータに関わる仕事をしています。
今思うと、学生時代のアルバイト、「ぴあ」での仕事もそうだったなと不思議な感覚に襲われます。

私がバイトしていたのは
1974年から75年にかけてのたった1年間なのですが
その当時はどの映画館で何の映画をやっているかという情報をまとめて掲載している紙媒体は新聞くらいしかなかったわけです。
しかも、新聞には全部の情報が出ているわけではなく
上映時間が出ていないことも多く
しかも、タイトルなども省略して出ていたりして
ちゃんとした情報を得るには映画館に直接電話するしかなかったのですよね。

だから、四谷文鳥堂にて、ぴあを発見した時には
もう、本当にうれしかったのです。

アルバイトでは、映画館に電話して上映の情報を得て
それをまとめる、ということもやっていましたが
最初は1ページ2段組でした。
それから、どんどん集められる情報が増えたようで
私がいる1年の間に、1ページ7段組までになりました。
売れ行きもうなぎのぼりで、
最初は返本が多く、出版部数を「公称3000部」とか言っていたのに
数年後に聞いたら、たしか、有名な大きい書店1店で「5万5千売れている」とか言っていました。
こういう数字は書いておいたわけではなく
聞いたことをなんとなく覚えているというだけなので、
検証してはいませんが。

また、当時のぴあの人たちは大手取引店を経ない販売というのを夢見ていて
マルイはどこの駅にもあるから、
「いずれ、マルイだけに置いてもらおう」
みたいなことも言っていて
「マルイに行けばぴあがある、ぴあが欲しければマルイに行く」
みたいなことをお題目的みたいに繰り返していました。

でも、それからすごく大きい会社になってしまって
今も会社はあるようだけれど、
紙媒体のぴあは無くなってしまったわけで
その間の情報処理能力の凄まじい進歩を思うと
眩暈がしそうです。

仕事ではずっと書誌情報に関わってきましたが
昔は電子媒体の「容量」に限界があったため
情報量を軽減するために、英文の雑誌名を略語で書くことが多かったのです。

この、略語というのが、具体的な決まりがあるわけではなく
慣習によって略されていて、基準が一定ではないのですよね。
コンピューター処理になってからも、
同じ雑誌なのに違う略し方をしているために
同じ雑誌かどうかを見極めることが難しくて
「重複」する可能性が常にありました。

自分のまとめる情報内での「略語」をどうするかという問題も常にあって、
気が付いたことはメモしておいて
それについてまとめながら作業するということずを~~~っとやっていたのに
情報を収容する容量は年々増え。
いつのまにか、雑誌名を略する必要すらなくなり
今まで考えてまとめようとしていたことが、すべて不要になってしまいました。

扱っている雑誌の種類が1000件とかになるため
略語で扱っていたのものをフルネームと対応させるという作業は大変なことでしたが
そこを過ぎてしまったら仕事はどんどんすごく楽ちんになってしまいました。

息子と話して思うのは
何が普通か、とか、常識かというこということ自体
感覚的に違っているのです。
概念自体が変わってしまったのですよね。
だから、すごく具体的に話をしないといろいろ通じないことも多いです。

これからは言葉をできるだけ正確に選んで、
「伝えたいこと」が不特定多数の人に具体的に通じるようにする
という作業がもっと必要になるのではないでしょうか。

これからこの世界を生きる若い人は大変だな~~。

がんばって欲しいです。


おしまい。



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捨てる写真④ 私(4)七五三まで [古い記憶の整理]

s_by10.png
これは3歳の七五三
「はい笑って」
とか言われているのにすねちゃって
なかなか写真を撮らせないので
「まったくこの子は~」
とか言われたような記憶が残っています。

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母方の祖父、ぺんぺん、
母の実家の隣に住んでしたスミコねえちゃんと成田山に行った写真。
昭和35年1月7日と書いてあります。
1960年ですね。

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父方の祖母と海に行った写真。
1961年8月31日石廊崎と書いてあります。

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出ました!
初めてのカラー写真。
昭和36年11月となっています。
1971年ですね。

新築した実家の前で。
新築したのはたぶん小学校の低学年だったと思います。
この家も、もうなくなるのですね…。

この時の着物は無地で波の折柄のあるうすい水色です。
後に母がこれを洗い張りに出して、
ピンクに染め変えてもらって、紋付にしてくれました。
大人の反物を使ったそうで、
つなぎ目がちょうど帯に隠れるように作り直してありました。

結局一度も手を通すことはなく
先日、実家にて処分してもらいました。

しつけがかかったままの着物も何枚もあったのですが
如何せん、私の十代から二十歳くらいまでの間に作ってくれた着物で
派手。

せっかく母に着付けを習ったから、
母の着物は取っておいてもらおうかとも思ったけれど
そうしてもらっても、私が引き取る当てはないし…。
しょうがないです。

着付けで実家に行っていた時に
写真には撮ったから、ま、いいかな。

まだまだ写真はあるけれど、きりがないし
この先、自分の持っている写真とかももっとあるから
ここでひとまず写真の整理は終わります。

写真の配分がめちゃくちゃですけど
お許しを。

何かをまとめる作業自体、わりに好きなので
いずれ、また気が向いてスイッチ入ったら整理できるかな??
でも、いろいろなことがだんだん面倒になってきてしまっていて、
もう、いいかな、という気もします。

ながながとお付き合い下さり、ありがとうございました。
スキャンし終わった写真自体は5月6日朝、ごみの日に出しました。
すっきりしました。
とりあえず、気が済みました。

おしまい。



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捨てる写真④ 私(3)弟が生まれて [古い記憶の整理]

私は昭和30年、3月生まれ
弟は昭和31年、11月生まれ。
年子です。

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これ、私ではないみたいなので、たぶん弟だと思うのですが
ちょっと顔が違うような気もします[たらーっ(汗)]

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これは弟。
後ろにあるお雛様。
お気に入りだったけれど、先日実家にて処分してもらいました。


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まだ弟が赤ん坊の頃。

少し大きくなってきました。
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下の写真の金網は、母の実家の左隣にあった保険会社です。
フミコおばさんはこの保険会社に勤めていたSさんと結婚しました。
母が見つけて、取りまとめたようです。
本当にすばらしいだんな様です。

一時、転勤でSさん一家が名古屋に行ってしまったことがあるのですが
どうもフミコおばさんがなじめなかったようで
会社を辞めて新宿に戻って来ました。
すごいです。

姉妹っていいですね。
年取ってからも母とフミコおばさんはよく一緒に出かけていました。
母が亡くなってから、
フミコおばさんは急に調子が悪くなって行ったような気がしてなりません。
亡くなる1年くらい前まで、母の方がフミコおばさんのことを
励ましていたのです。
母はいつも気にかけていました。
祖母に対しては、「フミちゃんのことばかりかわいがる」
とよく言っていたけれど、本当にかわいい人はかわいがられるのですよね。

私はかわいがられたり、誉められたりという記憶があまりありません。
写真で見ると、やっぱりかわいくないですよね。
だから、疎まれたと思います。
すごい恥ずかしがりやで、ほとんどしゃべらなかったし
すごいひねくれものでした。
弟は病弱だったし、よくケガをして、皆にかわいがられたのですが、
お使いなどの用事もよくできたし、快活だったのです。
でも、いつも私の後を着いて来るのですごく嫌でした。
かわいいと思ったことは一度もありません。

小学校の高学年くらいからだんだん変わってきて
中学で反転してしまったようで
中学から私は急にいろいろ活発になってきて発言したりするようになりました。

今、年取って、私は今までで一番無邪気になっちゃったみたいな気がします。
子ども時代にちゃんと子どもらしく過ごさなかったから
今、子どもをやり直しているのかしら? とよく思います。

(4)に続く


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捨てる写真④ 私(2)弟が生まれるまで [古い記憶の整理]

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曾祖母といっしょ。

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祖母、母と。


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ぺんぺんと。

いずれも本屋さんの前で撮影していますが
お蕎麦屋さんを継ぐ人がいなかったので、お蕎麦屋をやめて本屋になりました。
本屋さんの所に、雑誌などの宣伝の旗が見えますが
この旗は布団を包む風呂敷として、ずっと使っていました。

本屋さんには、場所柄、いわゆる「いかがわしい本」も置いていて
2丁目が近いことから、生物学的男性のゲイの方向けの雑誌などもありました。
今でいうゲイバーで働いている方は
昔は着流しにお化粧をしている人が多く
祖母が「シスターボーイと言うんだよ」と教えてくれました。
「シスターボーイ」というのは三輪明宏さんが出演された映画の中で演じた役から
漠然と、そいういう呼び名があったようです。

三輪明宏さんについては、
母は丸の内線で向かいに立ったことがあったそうで
「うっすらお化粧をしていて、ほんとうにきれいだった」
と、もう、何度も何度も死ぬまでそう言っていました。

私もデパートでちらりとお見掛けしたことがありますが
黄色い髪を隠しもせず、お洋服を選んでいらして
好感を持ちました。

また、団子さんもどこかのバーゲン会場ですれ違ったことがあるそうで
ついお辞儀をしたら、お辞儀してくれたそうで
「絶対にいい人」
と断言していました。

中学生になるくらいまでは、ほとんど毎日祖父母の家に行っていて
ここで夕飯を食べて、夜実家に帰る生活でした。
父はいつもいませんでした。
記憶の中で、祖母が言っていた
「よっちゃんはもう迎えに来ないから、帰った方がいい」
という言葉が耳の中に残っています。
きっとその頃から父は歌舞伎町で飲み歩いていたのでしょう。
泥酔して帰って来ることも多く、お酒にまつわるいくつかのエピソードを覚えています。

祖父母の家で夕飯を食べると、だいたい祖母と店番を代わっていたので
小学生の低学年の頃から大人の男性向けの雑誌の存在を知っていたし
買う人がいれば、袋に入れてお代をちょうだいしていました。
月刊紙の漫画はほとんど目を通していたし、
大人がいないところで、こっそり大人の漫画を見てみることもありました。
だたし、私はストーリー漫画は苦手で、全部に目を通してはいたけれど
覚えているのはギャク漫画ばかり。
特に赤塚不二夫さんの漫画は好きで、自分でも持っていました。
ストーリー漫画が読めるようになったのは大学生になってからです。

東海林さだおさんの漫画もよく読んでいましたが
私にとっては「大人のマンガ」だったので
大人に隠れて読んでいました。
研究所を辞めたあと勤めた編集プロダクションは
だいたい私より10歳くらい年上の文学畑の「オヤジ」の集まった職場だったのですが
この漫画全集がそろっていて、すごく懐かしくて読み漁りました。
子どもの頃はわからなかった「ペーソス」がわかったような気がしました。

大学時代、現在はもう廃刊となった「ぴあ」という雑誌で
アルバイトをしていたことがありますが
ぴあでは最初、大手の出版取次に反発をしていて
雑誌ができると、自分たちで直接書店まで「配本」することにしていました。
なので、本を置いてもらう本屋さんを自分たちで開拓していて
「販拡」と呼んでいました。
私はもちろん、祖父母の店にも置いてもらっていたのですが
配本の時、いつも、
「いやらしい本があるよね~」
とKDさんとかに言われていて、
だけど、それについては、いいとか悪いとか思ったことありません。
本当のことだからね。

新宿3丁目-1.png
新宿三丁目周辺の地図をアップしてみました。
左の小さい赤丸で囲んだのが、伊勢丹の東南の角、新宿三丁目の交差点。
右側の大きい丸、新宿五丁目東となっている交差点は、
上の写真の当時はまだありませんでした。
母が言うには、その周辺は戦後「青線」だったとのこと。
蕎麦湯は冷めにくいので、女郎屋さんの人が湯たんぽのお湯をもらいに来て
列になったということです。

明治通りから分岐して、この5丁目交差点までの道の上に
祖父母の実家はありました。
この道を作るために向かいに引っ越ししたのです。

この交差点の南西の角は、今は伊勢丹の駐車場になっていますが
私が小さい頃、ここに遊園地がありました。
母の実家の台所を開けると、すぐ遊園地だったから、
母の実家は現在ある道の右端(東側)にあったのですね。

そのあと、ゴルフ場になって、
そのあと、伊勢丹の発送所??みたいな所になって
そのあと、駐車場になって
その下がクイーンズシェフだった時もありました。

引っ越し当時、私は小学校の高学年くらいかな??
まだ都電が走っている道を、リヤカーで渡って家財道具を運びました。
引っ越し先は、この地図では「松屋」の印のある所です。

もともと祖父は土地は持っていなかったのです。
この新しい場所に4階建てのビルを建てました。
ビルの真ん中から右側の3階までが家になりました。
左側の4階までと、右側の4階は貸しビルになっていました。
祖父はエレベータを付けたことをものすごく自慢に思っていました。

祖父が亡くなったのはバブル末期くらいで、
地上権というものだけでも、相当なものになってしまったようですが
すぐに売れなかったので、母は相続税が払えず、破産??してしまいました。

すごく優しいおじいちゃんで、いつも白いタオルの鉢巻をしていて
六尺ふんどしでした。
お酒もたばこものみませんでした。
祖母、ぺんぺんは二人ともヘビースモーカーでした。

祖父のお兄さんはすごい入れ墨をしていた、と聞いたことがあります。
「おじちゃんは意気地がないから、痛いからやらなかったんだよ」
といつもぺんぺんに笑われていたけれど
それを部屋の隅で嫌な顔もせず聞いているような人でした。

これ、前に書いたような気もしますが、
孫がおじいちゃんを取り囲んで、
おもしろがって六尺ふんどしを引っ張って脱がしてしまうのです。

先代の林家三平が大好きで、
「あいつ、あんなことを言っていやがる」
と江戸弁で。「ひ」と「し」の区別ができませんでした。

パチンコが大好きで、勝った球を預けている??とかで
いつもお菓子が段ボールで届けられていました。

テレビのドラマなどで、お饅頭が出て来ると
「おい、見てごらん」
とテレビの横に立って
「テレビのお饅頭を出してやるよ」
と言って、隠していたお饅頭を出してくれました。

地下道が西口の小田急百貨店の方までつながった時、喜んで
「おい! 見にいくぞ!」
と、孫をぞろぞろ連れて、歩いて行きました。
ただ行って帰って来ただけでしたが[たらーっ(汗)]

新宿は山の手で、「田舎」だったため
祖母はいつも銀座を懐かしんで、新宿は田舎だ田舎だと言っていました。
母が小さい時、歌舞伎町は森だったそうです。
暗くてこわいから一人で行ってはいけない、と言われたようです。

昔の母の実家の辺りは、今は居住区ではありません。
住んでいた人はどかされませんでしたが、新しく人が住むことはできなくなりました。

今、フミコおばさんの家は新宿御苑の近く、
2丁目にも近いのですが
ここも最近は観光地化して来ていて、ホテルなども増え、
バーなどに観光バスが乗り入れて来ています。

ここもいずれ人が住めなくなるのでしょうか。

新宿の喧騒を嫌い、悪く言う人もいますが
もともと住んでいた人にとっては、やはりここは故郷です。

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ゆかたざらいか何かの写真です。
ぺんぺん、かっこいいです。
歌詞がわからなくなるといけないからか?
母が後ろに隠れて座っています[たらーっ(汗)]
この頃は、もう弟が生まれていたので、ここに入れる写真ではないのですが…。
私だけしか写ってないから、ま、いいか??

なんか、どんどん話が脱線し、
やたら長く書いてしまいました。
すみません。

(3)に続く





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捨てる写真④ 私(1)誕生 [古い記憶の整理]

とうとう私が産まれました[exclamation×2]

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息子が産まれた時も、この桶を使いました。

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たぶん新宿御苑。
母とフミコおばさんと行ったようです。

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フミコおばさん、日本髪を結っています。


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どこだろう?
母の実家かな??

s_yoshiko02.png
左後ろに三味線があるところを見ると、
ぺんぺんの部屋のようです。
ぺんぺんは結婚しなかったので、亡くなるまで母の実家で暮らしました。
お弟子さんが通って来ていたので、玄関からすぐに入れる部屋でした。

私はぺんぺんの膝の上。
なんか、こわ~~い。
ぺんぺんって、どえらく気が強くて
「あたしゃ巳年だから、執念深い」
と自分で言っていました。
「こんちくしょう」
とかよく言っていたけれど、そういう言葉がよく似合う人でした。
憎しみをエネルギーに変換していたような人です。

ぺんぺんが子どもの頃、曾祖母がぺんぺんに
「あんたは橋の下で拾って来たんだよ」
と言ったそうで、そのことをず~~~っと恨みに思っていて
「だから、あたしは本当の子供じゃないんだよ」
という話を何度も聞きました。
「三つ子の魂百までというから、下手なこと言うと子供は覚えているんだよ」
とも。
でも、曾祖母の優しそうに笑っている大きな写真をずっと飾っていました。

キャベツの芯が好きだったり
腐ったみかんが好きだったり
湿気た瓦せんべいが好きだったり
そういう自分の変わった好みが自慢だった感じです。

おいしい物を見つけてくると、しばらくそれに凝って、いろいろ教えてくれました。
私もいろいろ見つけては持って行くのが楽しみでした。

日本茶を淹れるのが上手で、
長火鉢の上にいつも鉄瓶がかかっていて、
とろとろの玉露を淹れてくれました。
「お茶は淹れ方だ」
と自負していて、安いお茶でもおいしく淹れられると言っていました。
実際、本当においしいお茶を飲んで育ちました。

台所には大きいヤカンがあって
いつも煮出した番茶が入っていました。
母が赤ん坊の私を実家に預けて行くと、私は哺乳瓶で番茶を飲んでいたそうです。

大人になるまで、ケーキを食べる時も私は日本茶を淹れていました。
今は紅茶派になってしまいましたが[たらーっ(汗)]

真ん中の人は、ぺんぺんのお弟子さんのおしのやさんです。

(2)に続く


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捨てる写真③ 両親(3)結婚後 [古い記憶の整理]

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父方の祖父と母


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横浜のお姉さんと母


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父の弟(兄弟姉妹の末っ子)あーちゃん
父は何をするにもこの叔父さんといつも一緒でした。
見た目は父より年をとっているように見えました。
父より先に亡くなりました。


2-5結婚.png
父方の家族との写真
一番右上に父がいるようですが、顔が半分切れています。
左上の端は祖父ですかね?
これはばっさりと切れています[たらーっ(汗)]

2-6結婚.png
すごいピンボケですが、
直す前の実家の玄関先だと思われます。
たしか、この古い家ごと父方の祖父が買ってくれたのだと言っていました。
私が小学校の低学年くらいの時に、新しい家に建て替えられました。

あーちゃん、父方の祖母が写っています。
祖母の前にいるのは、従兄弟だと思われます。
上に載せた家族の集合写真を見ると
母が結婚した時点で、父の長兄にはもう3人の子供がいたわけです。
祖母が連れているのは一番下の男の子でしょう。
ということは、たぶんユウちゃんという従兄弟です。

私が小学校に上がるか、小学校の低学年くらいまでは
父の実家に遊びに行くことがありました。
従姉妹、従兄弟の中で数人私と遊べるくらいの年代の子がいました。
私はどういうわけか、その中ではリーダー格で、
なんだかお話を作って、皆に役を与え、私がお話の主人公を演じていました。
だいたいが悲劇のヒーローで、悪役にさんざんなぶりものにされた挙句
 (具体的にはみぐるみはがされて、丸坊主にされ、身体の皮も全部はがされる)
川とか海に流される、というストーリーなんですけど…[たらーっ(汗)]
幼稚園や小学校ではほとんど物もしゃべらないような静かな子だったのに
なんで、ここで急に演出家的なことをやっていたのか?????
倒錯した子ども[たらーっ(汗)]ですね[たらーっ(汗)]

その時、私の劇に付き合わされた皆の乗り気ではない雰囲気をすごく鮮明に覚えています。
 (その当時、母方の実家の本屋さんに「赤胴鈴之助」のマンガ全集のようなのがそろっていて、
 ストーリーなんかほとんど覚えていないのですが
 お姫様がさらわれて、坊主にされてしまう、という回が
 子供心にやけに心に残り、このお話だけ繰り返し読んでいました。
 その影響が大きいと思われます)

長兄にはもう一人、私と同じ年代の娘ができて、
モトミちゃんと言いました。
私が遊びに行くと、モトミちゃんはオープンサンドとか自分で作って
外で食べることがあり、それがやけにおいしく感じたのですよね。
特に覚えているのは、お砂糖のオープンサンドです。
焼いていないパンにバターが塗ってあって、ただそこにお砂糖がまぶしてあるだけでした。
 (オープンサンドって言うと、しゃれて聞こえますね)

実家では、父が
「お砂糖は調理しないで食べてはいけない」
といつも言っていました。
「お砂糖の中には、身体の中から身体の内臓を全部食べつくす虫が入っていることがある」
と言うのですよね。
それは、子ども心にはすごく怖いことだったから、
「これ食べて大丈夫かな」
と思いながら食べたせいなのか???
禁断のおいしさ的な魅惑的な食べ物に思えました。

s_1-4ohaka.png
父はこのお墓を継いだのですね。
その後、墓石を据え変えています。

(4)に続く



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